A.R.ラフマーン。インドでその名を知らない人はいない。92年に映画「ロージャー」でデヴューしてから、彼はずっとインド映画音楽界のトップを走り続けてきた。
日本で「ムトゥ 踊るマハラジャ」がヒットしたとき、日本のメディアはラフマーンのことを「インドの小室哲哉」と喩えた。「スラムドック$ミリオネア」でオスカーを受賞したいま、「インドの坂本龍一」と喩える人たちも出てくるだろうか。
しかし、ラフマーンはラフマーンだ。モーツアルトやビートルズ、あるいはジョアン・ジルベルトを引き合いに出したとしてもしっくりこない。彼は、どんな過去の世界的ミュージシャンとも比べることはできない。
ラフマーンのファンたちは新譜がリリースされるたび、その新鮮な音に驚かされつづけてきた。ジャンルも、使われる楽器も、多種多様で計り知れない。未知なる音にドキドキし、イントロにしびれ、豊かなハーモニーにこころの深いところが揺さぶられる。
「ラフマーンらしい曲」なんてイメージすら危うくなるほど、ラフマーンは常に挑戦的だ。
ラフマーンの音楽の海は、かぎりなく広い。ぼくらはその岸辺に立ち、波の音に耳をかたむける。青く美しくまっすぐのびる水平線。その先にまっている「何か」に、恋いこがれながら。
幼くして父を亡くす
A.R.ラフマーンは、1966年1月6日チェンナイに生れた。父R.K.シェカールは楽器奏者・楽器レンタル業・作曲家をしていたが、ラフマーン 9才のとき、病気によって急逝。突然の不幸に一家は路頭に迷い、ラフマーンは11才からキーボード演奏者として働き、一家の家計を支えるようになる。
以来、南インド映画音楽の巨匠イライヤラージャをはじめ、M.S.ヴィシュワナータン、ラメーシュ・ナイドゥ、ザキール・フセイン、クンナクディ・ヴィ ディヤナータン、ラージャ・コティなど、古典音楽家から映画音楽監督まで、さまざまなミュージシャンのバックバンドに参加。働きながら、奨学金でトリニ ティ音楽大学で西洋音楽の基礎を学んだ。
また、家族の病気をイスラムの聖者が救ってくれたことをきっかけに、ヒンドゥーからムスリムに改宗。名前もディリップ・クマールから、A.R.ラフマーンに改名。ここから彼の第二の人生がはじまった。
衝撃的なデヴュー
92年、その後のインド映画界を左右させる2人の天才が現れた。1人はマニラトナム監督。もう1人はA.R.ラフマーンである。
彼らが脚光を浴びるきっかけとなったタミル語映画「Roja(ロージャ)」は、イスラム過激派に監禁されたジャーナリストとその妻を描いた社会派作品。 ハードで暗いテーマを扱いながらも、美しい映像とテンポの良い展開、キャッチーで新鮮な音楽がうけ、南インドで空前の大ヒットを巻き起こた。翌年、ヒン ディー語吹替版が北インドでも公開。全インド的ヒットとなった。
デヴュー作で、その名を全国に知らしめたラフマーンは、続いてマニラトナム監督の「Bombay(ボンベイ)」「Thiruda Thiruda(泥棒! 泥棒!)」、その妻スハーシニの監督作品「Indira(インディラ)」などの音楽を担当。その後もタミル映画「Kadhalan(恋人)」 「Indian(インド仕置き人)」などヒット作を連発、一躍売れっ子ミュージシャンとなった。
母なる大地の兄弟へ
1996年、インド独立50周年記念アルバム「Vande Mataram(母なる大地に捧ぐ)」をリリース。
独立運動時代、国民会議派などが政治的に使ったことから、ヒンドゥー至上主義の歌というイメージが強 かった曲を、まったく新しい解釈でアレンジした。なかでも「Maa Tujhe Salaam」は、政府・国家・宗教を超えた「国歌」と言っても過言ではなく、いまやインド人にとって特別な一曲となっている。
また、同アルバムには、パキスタンのイスラム宗教歌カッワーリーの帝王=ヌスラット・ファテー・アリ・カーンとのコラボレーション曲「Gurus of Peace」も収録。
インド独立は、同時に印パ分離の歴史でもある。彼らは音楽の力でもって、50年間離ればなれとなった兄弟を再会させたのだ。
残念なことにこの曲を録音した2週間後、ヌスラットは亡くなってしまうが、敬虔なイスラム教徒であるラフマーンにとって、いまもなおヌスラットは絶対超えられない目標であり、永遠の憧れの人である。
音楽が映画を助ける
80年代からじわじわとパワーダウンしていたインド映画業界は、90年代後半、ようやく活気を取り戻してくる。
90年代のヒット映画をあげていけば、そのほとんどがラフマーンが作曲したものだと気づくだろう。いわば90年代のインド映画はラフマーンによってひっぱ られていたといっても言い過ぎではない。たとえば「Dil Se..」や「Taal」は、映画のストーリーは不評だったが、圧倒的なインパクトをもつミュージカルシーンが絶大な人気を集めた。このころの映画館で は、本編はさておき、ミュージカルシーンを観て、満足し、途中で帰る客も少なくなかった。
一方、南インド側では、「Jeans(ジーンズ 世界は二人のために)」で、史上初の全米売上チャートベスト10入りを果たした。それ以外にも、家柄の異 なる舞踊家の切ない恋を描いた「Sangaman(結合)」、スーパースター・ラジニカント主演「Padayappa(パダヤッパ)」、TV司会者が政治 家になってしまう「Mudhalvan(トップ)」など、この時期多くのヒット作を矢継ぎ早に生み出していった。
その制作スピードは神がかっていて、毎月1~2枚のペースで新しいCDがリリースされた。それでもクオリティをまったく下げることなく2000年の「Alaypayuthey(ウェイブ)」、「Kandukondain Kandukondain(見つけた、見つけた)」では新しい音楽スタイルに挑戦。これまでの強烈なビートではなく、さわやかなポップスで若者たちを魅 了。時代の潮流を読み、停滞しつつあったインド映画界に活力を与えるカンフル剤となった。
新しいインド映画の幕明け
[cudazi_column_end]
[cudazi_column width=’6′ class=’alpha’ ]
2001年、ポリウッド数十年に一本の大傑作「Lagaan(ラガーン)」が全インド的メガヒット。(オスカー外国語部門にノミネートされた)
まるでこれをキッカケにしたように90年代ヒンディー映画界に充満していた不毛な空気は一掃され、新しいタイプの映画が意欲的に作られるようになる。
2002年、「Dil Se..(ディル・セ 心から)」のミュージカルにいたく感激したアンドリュー・ロイド・ウエバーがイギリスのミュージカル「Bombay Dreams」の作曲を依頼。ラフマーンは、大仕事に専念するためにロンドンにアパートを借り、インドとイギリスを往復して音楽を作る生活をはじめる。 (同時期に制作していた「Baba(ババ)」では、ロンドンのラフマーンと、チェンナイの演奏家・シンガーたちを、インターネットで結び作曲・録音をしたという)
ラフマーンの過去の名作を英語リメイクした「Bombay Dreams」は大成功をおさめ、ロンドンにインドブームを巻き起こした。それ皮切りに世界のショービジネス業界から熱い注目を受けるようになる。
2004年、中国映画「Warriors of Heaven and Earth(天地英雄)」に楽曲を提供。ある意味で初の印中合作の映画となった。
洗練されてゆく音楽世界
2003年のタミル映画「Boys」「New」などですでに頭角を現していたラフマーン流エレクトロニカが、2005年のマニラトナム監督作品 「Yuva(青春」で炸裂。数々の試行錯誤を経て作りこまれた音からは、従来のUKエイジアンとはひと味違う世界観を伺わせた。
また、この時期からタミル 人ラッパーBlaase(ブラーゼ)が楽曲に多く参加するようになり、よりHip-Hopのエッセンスを強めたものが目立つようになった。
その一方「Meenaxi(ミーナクシ)」「Bombay Dream」などでは、自身のアイデンティティとも深くつながるイスラム神秘主義スーフィーの音楽を思わせる楽曲を作り、亡き帝王ヌスラットを思わせるよ うなハードな声を披露した。
2005年の「Swades(わたしたちの国)」では、在外インド人の愛国心を揺さぶる名曲をつくり、世界中に散ばるインド人 たちの望郷の想いを揺さぶった。
世界のラフマーン
2006年、NZやカナダなどで公開された「ロード・オブ・ザ・リング」ミュージカル版の音楽を担当。
また、現代に苦悩する若者たちの青春を描いた「Rang De Basanti(黄色に塗れ)」が大ヒット。社会現象を巻き起こした。
チャリティ・キャンペーンのために作られた英語のテーマ曲「Pray for me brother」をリリース。
2008年、4時間におよぶ壮大な歴史ドラマ「Jodhaa Akbar(ジョダー・アクバール)」、新時代のラブコメディ「Jaane Tu Ya Jaane Na(君が知っても…知っていまいとも)」など、一時期の連作ラッシュからはスローダウンするものの、インドの若者たちの共感を呼ぶ作品をコンスタントに 作っている。
同年、イギリスの監督による映画「スラムドック$ミリオネア」に音楽提供。同映画は欧米で高い評価を受け、ゴールデン・グローブ賞、英アカデミー賞、米ア カデミー賞など数々の映画賞を総なめ。インド人初のオスカー受賞者となり、名実ともに「インドが世界に誇るA.R.ラフマーン」となった。